ペロン大統領と藤沢嵐子さん

過ぎてしまったのですが、7月21日は日本が誇る女性タンゴ歌手、藤沢嵐子さんのお誕生日でした。(1925年7月21日-2013年8月22日) 嵐子さんの歴史を振り返る時に、必ず登場するアルゼンチンのペロン大統領。そういえば名前は知っているけど・・・と、タンゴを知っていく上でも大事な存在でありながら、具体的に何があったかという情報はインターネット上には日本語では少ないので、自分のお勉強も兼ねて簡単にまとめてみようかなと思い立ち、(それ知りたい人いる?というツッコミは置いといて、笑)今回はこのふたりのことについて書いてみたいと思います。


アルゼンチンの大統領、ファン・ドミンゴ・ペロン(Juan Domingo Perón)。任期は1946年~1955年、1973年~1974年の2度。大衆迎合主義で国を腐敗に導き、現在も進行形であるアルゼンチンの経済不振、悪の循環の元凶を作った人物などとも言われている大統領です。


時は第二次世界大戦終戦直後。ペロン大統領は労働福祉政策を重視し、年金、医療、休暇制度などを充実させるなど、ここで労働者保護に関する社会立法が次々に成立しました。労働組合にも積極的に立ち入り、賃金の支払いや労働時間の改善をめぐり、組合の立場に立って雇用主に労働法の遵守を求めた結果、労働者の賃金は大幅に引き上げられました。


また民族主義的な工場化政策で、輸入制限や関税引き上げを積極的に行ったため国内の工業が大きく発展。外国資本が所有していた経済インフラ・産業(イギリス資本の鉄道など)を次々国有化。


しかし、それにより国外からの投資が激減、輸出によって支えられていた農業・牧畜業にも大打撃。国有化された公共部門にもさまざまな歪みが生じて国や州の財政赤字は拡大しました。終戦直後は保有量世界第一位だった外貨も1949年頃にはすっからかんに。そのような政策による経済危機で国内の空気はどんどん悪くなり、問題が次から次へと起こり、支持率も落ちた結果、クーデターにより追放されてしまいます。


ペロン大統領の敷いた政策はその後も国民の分裂をより深いものにし、国内は大混乱、ペロン支持者の中でも右派と左派に分かれていき、若者を中心とした左派はどんどん過激化。後の軍事政権での拉致・殺害の対象とされます。1973年に再び大統領に再就任するも、その1年後に心臓発作でこの世を去ります。


*参考記事

ラテンアメリカのポピュリズム
wikipedia : アルゼンチンの歴史


・・・そういった事から、国内でも様々な議論があるわけですが、当時は労働者階級の人々から圧倒的な支持を受けました。葬儀には全国から100万人以上の支持者が参列し、国会議事堂周辺にはその死を惜しむ人々で数キロに渡る列が出来ました。今でも、当時を振り返り”幸せな時代(Los años felices)”と言われていたりします。

↑ 1974年7月1日、国会議事堂前での葬儀の様子


ペロン党とも言われる党派、正義党 (Partido Justicialista)は、現在の大統領であるアルベルト・フェルナンデス大統領の与党であり、アルゼンチンにおける最大与党。そしてこのペロンの考え方を支持する人たちのことはペロニスタと呼ばれ、ペロン大統領夫人であった”エビータ”と共にアルゼンチンでは現在もカルト的な支持者がいたりします。(エビータの人生がドラマティックで映画にもなっており有名ですが、今回はエビータについては触れないことにします。)


ペロン大統領のナショナリズムは、教育部門、またタンゴをはじめとする自国の文化をとても重要視し、豊かにさせました。例えば、現在数ある音楽学校を作ったのはペロン大統領です。(未だに、誰でも学べるように学費は無料、なんと外国人でも無料!)ペロニスタを公言していたタンゴの有名な音楽家・作詞家たちも数多く、代表的なのはEnrique Santos Discépolo, Aníbal Troilo, Nelly Omar, Hugo del Carril, Tita merello…。ちなみにペロンが亡くなった後には、ペロニスタとして目立っていたアーティストたちは新政権(軍事政権)の元では仕事が出来なくなり、一時期海外に活動拠点を移したり、活動休止せざるを得なくなりました。その当時、殺害対象であった音楽家の労働組合に所属していたバンドネオン奏者ファン・ホセ・モサリーニ(ピアソラなどとも共演していた、代表的な奏者です。)が、フランスに亡命したことも有名です。


正の遺産も負の遺産も両方残した大統領ですが、もしもペロン大統領の時代がなかったら、今も語り継がれる華やかなタンゴの時代は存在していなかった可能性も、あるのかもしれません。。


さて、長くなりましたがここから、そんなペロン大統領と接点のあった藤沢嵐子さんの話。嵐子さんについての記事は日本語でも色々出てくるのと、記事が長くなりそうなので、簡単にまとめます。


1925年生まれ、現在の東京芸術大学に入学しますが、休学を余儀なくされ満州へ渡り、その地で終戦をむかえます。家族の生活を支えるためにダンスホールなどで歌う日々でしたが、そこから才能を見いだされ様々な作曲家が彼女の為に曲を書き、キャリアを積んでゆきます。シャンソン、歌謡曲を歌っていくうちにタンゴに惹かれ、1949年、早川真平率いるオルケスタティピカ東京の専属歌手となります。その頃の戦後の洋楽ブームと民間放送の相次ぐ開局により、タンゴ番組が数多く組まれるようになり、タンゴは多くのファンを獲得、日本にタンゴの黄金時代をもたらしました。


そうして1953年。アルゼンチンでもタンゴ黄金時代のまっただ中、日本で活躍していながらもやはり本場へと、勉強に訪れたブエノスアイレス。元々ラジオなどを通してアルゼンチンでもその存在は知られていたそうですが、この時が初めての渡亜だったそうです。日本から来ているのならと、エビータ(大統領夫人)追悼コンサートに急遽出演することになり、この時代のトップスターであったデュオ、”トロイロ・グレラ” (Anibal Troilo y Roberto Grela) のバンドネオン・ギターの伴奏で、ペロン大統領の御前で歌うことになった嵐子さん。


歌う前の紹介をしているのは神、アニバルトロイロ。(はい、神です)もうその紹介の仕方も愛にあふれていて、詩的で素敵なんです。一部を書き起こして翻訳してみました。(私の乏しい翻訳力ではその素敵さは全然伝わらないかもしれないのですが・・・!)


“Le digo bienvenida muchacha, Buenos Aires, mi patria. El tango te declaramos nuestra y te hacemos un lugar en el rincon mas puro de la orilla. Esta noche, tus ojos oblicuos y brillantes entran en la emocion con la ganzua de tu voz japonesa, hasta el mismo cogollo de nuestro porteñismo. Un fueye y una viola te saludan en nombre de la patria. Aderante muchacha.“


”ようこそいらっしゃいお嬢ちゃん、ブエノスアイレス、私の国に。あなたはもう僕たちの仲間であり、川べりの片隅の一番綺麗なところにあなたの場所を作ってあげましょう。今夜、あなたのそのキラキラ輝いた釣り目は、あなたのその声を合鍵にして、私たちの感情の奥深くまで辿り着くでしょう、ポルテニズム(*)の奥底まで・・・ ひとつのバンドネオンとひとつのギターが、国を代表してあなたを歓迎します。こちらへどうぞ、お嬢ちゃん。”


(*)ポルテニズム=ポルテーニョ(ブエノスアイレスっ子)イズム。


というわけで、前置きが超超超長くなりましたが、ペロン大統領の前で歌われた、その時の録音です。ドロロロロロロ~~~~~・・・・・(ドラムロール)ジャン!では、どうぞ!

はぁ~~~感動!!!!感涙!!!!

勿論前評判があったからとは言え、初めて訪れたアルゼンチンでトロイロ・グレラの伴奏(トロイロはこの曲Surの作曲者でもあります)で、アルゼンチン大統領御前でタンゴを歌うって改めてどう考えてみても凄いですよね、、この録音も感動しかないです。緊張感が伝わってくるのも、私まで一緒に(?)泣きそうになります。。。他にも録音はyoutube上にもたくさんアップされていますので、興味を持った方はぜひ探っていってみてくださいね!


*参考記事

もっと詳しく知りたい方へ、こちらの記事がとても興味深かったです。

Wikipedia : 藤沢嵐子


ということで、無理やりふたりの人物をくっつけたような形になりましたが(笑)、アルゼンチンの政治の歴史は複雑。軍事政権時代も、アルゼンチンの重要な歴史のひとつです。映画や音楽など沢山の作品が残されており、その悲しい時代について知ることが出来ます。まだまだ勉強不足なのですが知れば知るほど興味深く、また2000年以降のペロニスモ政権がどういう考え方で国を作ろうとしているか・失敗しているかもわかってきます。。ペロニスモとタンゴの関係も深いようなので、また何か記事にしてみようと思う事があるかもしれません。

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